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田蓑神社

大阪市西淀川区佃に座す、田蓑神社です。

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お社の名称は幾度か変更になったようですが、現在は、田蓑神社になっています。

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手水の龍には彩色が施されています。

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御祭神:表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后

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拝殿前の狛犬さんは、今風のやや粗削りのざっくりとした彫りですね。

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大阪府下最古といわれている狛犬さんには近付けませんでした。

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境内社用の鳥居があります。

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稲生社:宇賀御魂神

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七重社:天照皇大神・事代主大神・猿田彦命・大國主大神・應神天皇・少彦名大神・菅原道眞公

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東照宮:徳川家康公・金毘羅宮:大物主大神

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この、東照宮前の狛犬さんは、昭和初期の作だそうですけど、お顔がお猿さんみたいでオモシロイですね。本殿横の大阪府最古の狛犬さんを模したものではないでしょうか。

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北野鳥居の近くにはお地蔵さんが祀られています。

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そして、北野狛犬さんは、チョット禿げ頭みたいで、落ち武者風というか、昔の武者絵にありそうなカンジがなんともいえませんですね。

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田蓑神社由緒1: 田蓑神社略由緒によると、神功皇后が三韓征伐の帰途にこの地を立ち寄られ、その際に島の海士が白魚を献上し、その海士を奉ったのが興りとされている。

その数百年後、この地を開拓するとその海士が出現し、「神功皇后の御船の鬼板を伝え守って数百年、この神宝を安置して住吉大明神をお奉りせよ」と申されたため、貞観11(869)、田蓑神社が創建された。この鬼板は、現在も田蓑神社の神宝として奉られている。

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佃漁民ゆかりの地の石碑

田蓑神社由緒2:天正14(1586)年、徳川家康公この地に立ちよられ多田の廟に参詣の時、田蓑嶋漁夫等、漁船をつかって、神崎川の渡船を勤めた縁により、漁民等には「全国どこで漁をしても良し又、税はいらない」という特別のごほうびをいただき、漁業の一方、田も作れと命じられ、その竟をもって田蓑嶋を佃と改めた。

寛永8(1631)年、田蓑嶋神社内に、徳川家康公が奉られることになった。

東京都中央区佃の住吉神社の由来
天正18(1590)年8月1日、家康公が関東へ下降の時に佃の人等33名と田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次が住吉四神の分神霊を奉戴して、当時安藤対馬守、石川大隅守の邸内に一時奉祭し寛永年間に鉄炮洲(現在佃嶋)の地をいただき、大阪の佃と同じ名を付け、住吉大神の社地を定め正保三(1646)年6月29日、住吉の四柱の大神と徳川家康公の御霊を奉られた。

寛保元(1714)年9月に、住吉神社と改名。

明治元(1868)年に田蓑神社となる。

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謡曲「芦刈」の石碑・紀貫之の歌碑などがあります。

ところで、田蓑嶋といいますと、八十島祭りに関する事蹟ががなにかあるかと思っていたんですけれども、見つかりませんでした。八十島祭りにいうところの田蓑嶋は、また別なのような気がします。

田蓑島の由来は、住吉大社の神主家の津守氏の祖、田裳見宿禰に由来するのではなかろうかと思われますね。               

神社の創建された9世紀頃の大阪湾には、多くの砂州や小島があって、八十島祭りが行なわれていた時代でしょう。そして、八十島祭りを取り仕切るのは住吉大社の役目であって、おそらくはそういった関係から、大阪湾岸の開拓に津守氏は深くかかわっていったんではないでしょうか。そういった流れのなかで、現佃島の開拓をしている過程で、埋没していた軍船が発見されたんではないでしょうか。西の対岸にある、梶ヶ島住吉神社には、軍船の梶に由来するエピソードがありまして、これも同様の状況から起こったものではないでようか。

さて、徳川家康公は、天正14(1586)年10月26日大坂城にて秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明しているので、この帰途、川西の多田神社(源氏縁の神社、ナント、家康は源氏だった)に参詣したんでしょうネ。その一方で、後々の破格の待遇を考えてみると、佃島民は、単なる漁師というよりは、外洋を航海できる規模の船団を持った水軍の本拠地であったのかもしれないとか想像してみました。平素は漁業をしつつ、有事には、物資輸送、洋上警護、水先案内などを行なっていたのではないでしょうか。

佃島民のこういった能力に家康公はいち早く気づいて、江戸へ連れて行ったのではないかと思われますですね。

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国道二号線の左門殿川から佃方面を眺めたところです。この辺りは、埋め立て地であるうえに、明治以後の近代化の中で、昭和中期頃までさかんに工業用水として地下水のくみ上げがおこなわれた影響で地盤沈下が激しく、度々高潮の被害に見舞われました。現在でも、高潮対策として、巨大な堤防と水門が構築されています。こういったことを考えてみると、今は海抜ゼロメートルでも、中性には、もう少し海抜の高い部分があったのかもしれませんね。


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